秋田雨雀の墓
明治・大正・昭和にわたる文壇で活躍し、その文士仲間からは「雑司谷の梟(ふくろう)」とアダ名され敬愛された秋田雨雀は、本納寺の斜め向かいに住んでいました。その家は当時「雑司谷の童話の家」とよばれていたといいます。
秋田雨雀は、社会主義思想家として、童話作家・戯曲家・詩人など、さまざまな顔をもっていました。晩年には兜木正亨師(当山三十三世住職)との交流から、仏教にも大変興味を抱いたようです。
また彼は雑司が谷という土地をこよなく愛し、地域活動にも力を注いでいました。今日、江戸の名残りをつたえる「大門のけやき並木」も雨雀と兜木が昭和14年に保存会を設立し、昭和30年に東京都の天然記念物の指定を受けています。
昭和37年5月12日、80歳をもって世を去りましたが、遺骨は、いく夫人の意によって郷里(青森県黒石市)には帰らず、雑司が谷に留まりました。