白鷺飛来
2012年2月12日
2012年2月12日
2012年2月8日
中山・柴又団参レポート
西部宗務所主催の檀信徒団参に参加しました。大型バス七台の大所帯です。 高速道路がスムーズに流れていて、予定よりずっと早く中山法華経寺に着いてしまい、ご祈祷を受けるまでしばらく待つというハプニングはありましたが、その間に奥の聖教殿(宝物堂)を見に行くなど散策することができました。この聖教殿の鍵は三人が持っているそうで、三人揃わないと開けられないとのこと。そしてその鍵のひとつを本納寺の総代さんがお持ちだというお話を聞き、なんだか誇らしい気持ちになりました。
いよいよご祈祷を受ける順番が回ってきました。御堂に入る前に、ひげも髪も伸びた行僧さんから説明を受けました。この行僧さんが、ガラガラ声なのにものすごく良くとおる声の持ち主で、後ろに方にもはっきり聞こえて驚きました。毎日大声で修行なさっているからでしょうか。
ドキドキしながら中に入り、周りを囲んでいるたくさんの行僧さんの間を通って座ると、正伝師御導師のもと、迫力のご祈祷が始まりました。前屈みに頭を下げている私は、頭上でどんなことが行われているのか見たかったのですが、キョロキョロするわけにもいかず上目遣いに目玉を動かすのが精一杯でした。各人お経の筒で背中を祓ってもらい、バン!と叩いて頂くと終了です。
ここ荒行堂では、粗食と3時間の睡眠に耐え、法華経読誦と1日7回水をかぶる水行があるそうです。行僧さん達はこの寒さの中みんな裸足でした。強い精神と体力がないと100日間も続けられないでしょう。ご祈祷して頂いて気持ちが引き締まりました。
さて、中山をあとにして、次はお楽しみの柴又散策です。まずは題経寺で帝釈天お開帳のあと、素晴らしい彫刻の数々を見学しました。柴又のメインは寅さんかと思っていたので、あまりの緻密な彫刻に「もっとこれを前面に出して宣伝すればいいのに」と言う声も聞かれました。
そうはいっても、やはり高木屋で草団子などを食べ、駅前の寅さんの銅像と写真を撮り、柴又を満喫して帰ってきました。(Y)
2012年1月20日
2012年1月1日
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします
厳島団参記
本年も皆様にとって良い年でありますように。
厳島団参レポートです。
—団参に参加して— (檀徒M.M記)
10月26日、厳島神社千畳閣法要参列の旅に羽田空港を飛び立った。一時間程で静かな山間にある広島空港に着く。予約のバスで山陽道路を呉方面に向かって走り昼食場所「かき船かなわ」に着いた。期待した牡蠣料理だったが時期が早かったため小粒で少々寂しかった。他の全ての料理を堪能し、広島平和祈念資料館へ向かった。中には原爆投下当時の写真等が展示されていた。この公園は広島の中心部にあり、世界の恒久平和を願って爆心地に近い場所に建設され、世界遺産に登録されている原爆ドームや原爆死没者慰霊碑などがあった。この広い公園で戦時中の出来事などを話合いながら一休みし、宮島口港へ向かった。フェリーに乗り間もなく宮島港に着き、出迎えの案内でホテルへ。夕食の穴子料理に満足し響き渡る和太鼓の演奏に感銘した。
朝、徒歩で厳島神社へ。そびえ立つ朱塗りの大鳥居を拝しながら神社に着いた。丁度満潮時のため入り口には小さな波が寄っていた。
本社を中心に「客神社」「門各神社」など配置され「楽房」「能舞台」などがその間に設けられ、また「長橋」「反橋」などが架けられ建物は回廊でつながれている。鮮やかな朱塗り、檜皮葺きの荘厳な屋根、清楚に配列された柱、ゆったりとした板敷き床など平安時代にその極みに達した寝殿造りの建築美を誇っている。
この後、宝物館を拝館。平安朝後期、平清盛が安芸の国在任中崇敬し一門が奉納したといわれる「平家納経」の巻物や銅製経箱を拝観した。何百年も経った現在まで色褪せることなく当時のまま保管されている経巻に胸を打たれた。平家納経を訳読された本納寺先々代兜木正亨先生の偉大さにも感激した。
雅の世界に思いをはせながら商店街を通り、昼食の店へ。穴子丼が美味だった。
千畳閣へ向かう途中で見た「龍ぜんの松」は、横へ二本、長さ約六メートルくらい伸びていて龍の姿に似せた枝振りの美しさが印象的だった。千畳閣に登り、隣に見える五重塔を眺め、少し早い紅葉の景色に自然の美しさを感じた。千畳閣の建物は豊臣秀吉が毎月千部経を読誦し戦没将士を慰霊するため建立した大経堂であり、この経堂で厳修される日蓮宗声明師会連合会による法華経読誦大施餓鬼法要に参列させて頂いた。時間の都合で最後まで拝経できず残念だったが、素晴らしい秋晴れの好天気に恵まれ、意義深い旅行だった。
2011年12月4日
2011年11月22日
LIVE チェロ&ハープ
10月17日のお会式では宗祖日蓮大聖人730遠忌御報恩会法要が厳修されました。平日の夕方にもかかわらず、子供から大人まで約50名がご参列くださいました。
法要後には、植草ひろみさん、早川りさこさんによる奉納演奏がありました。
演奏はもちろん、曲の解説や楽器の紹介・説明があり、子供達も身をのりだします。
チェロの植草さんからの「このチェロは何年前に作られたものだと思う?」との質問に、子供達は「10年!」「 50年!」と答えていましたが、答えは何と201年前! でした。
ハープの早川さんは、普段なかなか間近で見る機会のないこの楽器について説明して下さいました。ドの弦は赤色、ファの弦は紺色になっている事、手で弾くだけではなく、両足も使ってペダルを踏み3段階に音を変えていることなど、「白鳥のように水面下では必死」なのだそうです。そしてそれを悟られないようにいかに優雅に演奏するかが腕の見せ所だとか。
演奏曲は西洋のものが多かったのですが、子供たちにも馴染みのある「七つの子」なども披露してくださり、国を超えて、また時代を超えての演奏となりました。
チェロの低音が心地よく身体に染み渡り、ハープの音色とあいまって、参列者からは「法要も法事の時とは違って華やかだったし、演奏は素晴らしかったし、参列してよかった。得した気分です」「こんな少人数で聴くなんてもったいない」「意外と本堂にマッチしていて、美しい音色で大変癒されました」と大好評でした。
すばらしい奉納演奏をありがとうございました。
2011年11月1日
実験教室に参加して
○サンゴが『生き物』だとわかりました。星砂やサンゴの絵を描くのとサンゴのサイズを測るのが難しかったけど楽しかったです。顕微鏡で色々な小さいサンゴを見られて嬉しかったです。(小3)
○「サンゴの話」と聞いて、難しそうだなぁ、と思っていましたが分かりやすく、楽しかったのであっという間に終わってしまいました。顕微鏡で砂を見た時には驚きました。これまでに星砂は見たことがあったのですが、BIG SIZEで見たのは初めてだったからです。本当に「おっとっと(スナック)」のようでした。
他にも、サンゴ礁と普通の海の色の違いの理由や、二酸化炭素についてなど飽きることなくずっと聞き入っていました。本当に貴重な体験を有難うございました。(小6)
○子供達だけでなく、大人にとっても楽しく有意義な体験でした。サンゴのイメージが変わり、その意外性にかわいいとさえ思えるようになりました。今度南の島へ行ったら、違う視点から海を楽しむことができそうです。貴重な体験をありがとうございました。(保護者)
2011年10月24日
"サンゴや星砂を見てみよう"
今年の子供科学実験教室(8月26日)は、東京大学理学系研究科で珊瑚の研究をなさっている中村修子先生に来て頂きました。
珊瑚は植物ではなく動物!という驚きのお話から始まって、珊瑚は自分では動かないけれど、共生藻(きょうせいそう)という藻に住処を提供するかわりに栄養をもらって生きていること、珊瑚の色はその共生藻の色だということなど、初めて聞く内容に、参加した小学生15名も興味津々。
先生が持ってきて下さった珊瑚や星砂の実物を虫眼鏡で拡大してスケッチしたり、顕微鏡で見たりして観察しました。
最近は地球温暖化で海水の温度が上がり、珊瑚から共生藻が出ていって珊瑚が白くなってしまう「白化現象」が問題になっています。他にも海水汚染などで珊瑚礁は危機に瀕しているそうです。
後半は、身近な炭酸水を見て二酸化炭素を意識したあと、海に溶け込んだ二酸化炭素がカルシウムとくっついて炭酸カルシウムになり珊瑚という形になったというお話を聞きました。二酸化炭素は大気中から海に溶け込み、諸々の死骸が海底に積もり積もって長い年月を経て石灰岩になります。その後、海底プレートに取り込まれ、これまた長い年月を掛けて火山の噴火で大気中に出る、こうやって、二酸化炭素は地球をぐるぐる循環して、人間もその一部なのだそうです。
みんなお土産に星砂を分けてもらって大喜び。なかなか聞く機会のないお話の連続に見学の保護者も「大変勉強になった」と大好評でした。
2011年9月18日
23年お会式のご案内
宗祖日蓮大聖人七三〇遠忌御報恩法要
奉納演奏 チェロとハープのデュオライブ
植草ひろみ (チェロ)
早川りさこ (ハープ)
10月17日(月)午後6時開式(無料)
植草ひろみ 東京芸術大学附属音楽高校を経て同大学卒業後、10年間(財)新日本フィルハーモニー交響楽団に在籍。在団中、2年間米国シンシナティに留学、同地でリサイタルを開く。退団後、ピアソラのCD“Cafe 1930”をリリース。オペラシティリサイタルホールでのCD発売記念コンサートでは本邦初演の曲を演奏し、好評を博す。又NHK-FM"午後のリサイタル”出演、国内外のアーティストの録音やカーネギーホール公演、草月ホールでのリサイタルなどを行う。 近年は“癒しの音楽”をテーマに、“Sound of the Sky”というハープの早川りさこ氏とのデュオコンサートが好評を得ている。 2011年7月、ディスククラシカより2人の演奏を収録した“いつかの美しい日のように”というタイトルのCDをリリースした。 現在、聖徳大学音楽学部講師、アンサンブルフォルテメンバー。 その他、室内楽やオーケストラの首席奏者など幅広い演奏活動を行うチェリストとして活躍中。http://www.U1.sokei.co.jp/Hiromi/
早川りさこ 東京芸術大学附属音楽高校を経て同大学卒業。 「第3回日本ハープコンクール」(1991) で優勝後、サンフランシスコのハープ・フェスティバルに招かれ、招待演奏を行う。 1993年 、東京文化会館にて文化庁助成によりデビュー・リサイタルを開催。 「第2回アルピスタ・ルドヴィコ・スペイン国際ハープコンクール」(1996) で優勝後、国内外の数々の主要オーケストラと共演、日本初演作品も多い。 音楽祭などへの出演も多く、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)にて講師として指導、演奏を行う他、サイトウキネンオーケストラ、霧島国際音楽祭、宮崎国際音楽祭等に参加する。 天皇、皇后ご結婚40周年では宮中に招かれて演奏、また、2005年のNHK紅白歌合戦出演 など、活動の場は広い。 2006年より東京芸術大学附属高校及び東京芸術大学にて後進の指導にあたる。 NHK交響楽団ハープ奏者。http://members.jcom.home.ne.jp/ginnohue/
本納寺書道展のお知らせ
10月17日(月)・18日(火) 10時~16時
お会式に併せて写経会および子供・大人書道教室のみなさんの作品を展示いたします。ぜひご覧ください。
2011年8月19日
「For Kids 5」
第5弾です。ご感想をお待ちしております。myo-eizan@honoji.or.jp
まる子 (2011-08-27 10:10)
いつもfor kids楽しみにしています。娘(8歳)も、「マンガなので読みやすいし、わかりやすい!」と喜んでいます。
2011年7月31日
Bhutan report 3
ブータンでは国中、あちこちに「ダルシン」「ルンタ」とよばれる、白くて大きなのぼり状のものや、カラフルな五色の経文を印刷した旗が万国旗のようにはためいている。一回はためくと1回お経を読んだことになり、その功徳が風にのり、ひろがっていくと考えられているのだ。また寺院はもちろん、街中にも「マニ車」がたくさんある。これは経文が書かれた回転する筒で、下についている取っ手を持って時計回りに回す。マニ車が一回転するごとに1回お経を読んだことになる。
首都ティンプーを離れ、標高3300メートルのドチュラ(峠)を超えてプナカとワンディーという町ヘ出掛けた。
ドチュラは前日の初雪で雪化粧。今日は曇天だが、天気が良いとヒマラヤが見えるそうで残念至極。プナカにあるゾン(プナカ・ゾン)はブータンのガイドブックの表紙になるような代表的な建物で大変に美しい。特に、大講堂の内装や壁画はブータン随一である。
ワンディーは、とてつもない田舎でとてものどか。田んぼで子供達がサッカーをしていたので入れてもらう。ボールにほとんど空気が入っておらずベコベコでびっくりした。リフティングすると、みんな不思議そうに見ていた。
今度はラワラ(峠)を超えてポプジカという谷へ。ラワラも3000メートルを超える標高で、ヤクが放牧されている。そこで初めてヤクシャ(ヤクの肉)を食べた。ビーフジャーキーに似ているが獣臭い。シッカムという豚の脂の固まりも食べたが、ロウソクを噛んでいるようだった。ポプジカでは、オグロツルを見ることができた。壮大な谷にはツルが何十羽も餌をついばんでいて、飛び立つときの美しいことといったら!時間が過ぎるのを忘れてしまった。
ティンプーの町に戻り、お土産にブータンの民族衣装を買った。男性用はゴといい、女性用はキラという。ブータンでは今でも、この民族衣装を日常的に着ている。文化を残すため、役人やガイドさんは着用が義務づけられているそうだ。ランチはヤクシャのハンバーガー。
いよいよ今回研修のメイン、ブータンの聖地タクツァン寺院へ。タクツァン寺院は、山の上の絶壁にへばりつくように建てられている。パドマサンババ「別名グル・リンポチェ」が、仏教を弘めるために虎の背中に乗ってやって来た時に瞑想した場所である。タクツァンにたどり着くには約2時間の山登りをしなければならない。空気が薄いため息があがり頭もクラクラしたが、崖の上のタクツァンがだんだん近づいてくるのを励みに頑張ることができた。途中のレストハウスで昼食タイム。ここから見えるタクツァンはまさに絶景だった。そこからさらに石段を下って上って、やっとのことでお参りすることができた。ありがたさ倍増である。
その後、山を下って、ブータン最古のお寺キチュラカンを参詣した。夜はドツォという焼き石風呂にも入り、ブータンの旅は充実の終了を迎えたのだった。
自然の美しさと人々の素朴さに心を洗われた旅だった。
私が出会ったブータンの人々は、上品で純粋でやさしく親切であった。皆、敬虔な仏教徒であり、仏教を生活の中心に据え、その教えに従って日々暮らしている。
この国の人々は「本当の良い生活とは、物質を多く享受する生活ではない。豊かな精神と文化を持つことである」と信じているのだ。
日本が発展していく間に無くしてしまったものがたくさん残っているブータン。これからそういうものが変化していってしまうかと思うと、残念で仕方がない。
近代化の波に乗り遅れ、明治・江戸時代さながらの農村生活を残してきたブータンが今、激変している。首都の町では携帯を持ち、韓国ドラマにはまって、ヘアースタイルを真似た若者であふれている。
お世話になったガイドのタンディンさんは、「日本が大好き。将来ブータンも日本みたいになってほしいと願っている。日本にはアメリカや中国に押されず、もっと強くなって貰いたい。」と話していた。お手本になれる日本でありたいものである。(達彦記)「終」
2011年6月13日
Bhutan report 2
ブータンの観光客受け入れシステムは独特で、一日滞在あたり200ドルかかる。旅行者は、ビザを取得する時点ですでに全行程の宿泊地、経由地を確定しておく必要がある。入国するには国営のドゥルクエアーしかないので飛行機の予約も難しい。出発前の手続きをしていた時は、なんだか割高で面倒な気がしていた。
しかし、その1泊200ドルという公定料金の中には、ホテル宿泊・3食の食事・移動の車・ドライバー・ガイド・ミネラルウォーターなどが含まれている。そしてこれらの手配はすべてガイドがやってくれる。
実際旅行してみると、煩わしさもなく、結構便利であった。
もちろん、超高級ホテルや豪華食事などもあるので、それを希望した場合は公定料金超過の分を実費精算する。私達は超過しなかったので、実質的には妥当な料金だったのではないかと思う。
さて宿泊するホテルに移動である。車窓からの景色は、一面に広がる棚田とポツポツと建つ家々。建物の柱や梁、窓枠などには彫刻がほどこされ、美しく彩色されている。一方、屋根を見るとほとんどが簡素なトタン屋根。のちに田舎に行った時には板に石を乗せてあるだけであった。
到着したホテルの室内は意外にきれいだった。ところが夜シャワーを浴びようとすると、お湯が出ない。その晩は初雪が降ったほどで、とにかく寒いのに水がちょろちょろとでるだけ。大声を出しながら気合いで身体を洗い流す。数年前の荒行堂と帰山式を思い出した体験だった。
ブータンは沖縄と同じくらいの緯度なのだが、標高が高いため、普段の気候は冬の東京と変わらなく感じた。
ブータンでは初雪がふると、翌日が休日になる。ブータンでオリジナルの切手が作れるというので楽しみに予定していた日が、運悪くこの「初雪休み」に当たってしまい、郵便局も閉まっていた。
二日目日、首都ティンプーの北部にあるチェリというお寺に行った。この寺は山の斜面に建っていて、たどり着くのに40分ほど歩かねばならなかった。標高が3000メートルほどの所にあるので、雲が近くすばらしい景色である。チェリには畳2~3畳ほどの小部屋が連なる建物がある。ここに3年間籠もって瞑想している修行僧がいるそうだ。3年間一切人と話さず目を合わすこともしない。世話係の僧が食(じき)を入り口に置いていくだけとのこと。いくら絶景で深山の瞑想場所といっても・・・。よほどの覚悟がないとできまい。現在日本人も一人修行をされているそうである。
— ブータンの仏教と信仰 —
ブータン仏教はチベットから伝来したものである。信仰の対象は、釈迦如来、西暦700年頃チベット仏教をブータンに伝えたパドマサンババ「別名グル・リンポチェ」、そして1600年頃の建国の指導者シャプドゥン・ンガワン・ナムゲルである。チベット仏教は日本の仏教と違ってインドの後期仏教の影響が強く、お釈迦さまのほか、様々な如来・菩薩・観音さまが取り入れられているのが特徴。さらに色々入りくんでいて、わかりにくい。
ブータンの人に「お寺は何のためにあるのか?」と聞くと「世界平和」「人々の幸福」という大乗的な答えが返ってきた。「誰か困っている人が身近に一人でもいたら自分は心から幸せだとは思えない」とはいうものの、実際には自分の後世のための信仰も強いようだ。自分はなにものかの生まれ変わりであり、死んだ後も何ものかに生まれ変わってこの世に帰ってくるのだと信じている。お経を唱えたり、お寺にお参りに行ったりするのは、「世界平和」「人々の幸福」だけでなく、来世で少しでも良い境遇に生まれ変われるようにという願いのもとに行われているみたいだ。[つづく]
2011年5月16日
Bhutan report 1
先日、仏教研修のため、ブータンに行ってきました。
なぜブータンかというと、本納寺で何度か「科学実験教室」の講師をつとめて下さった小森氏が、JICA(国際協力機構)の調査員として首都ティンプーに赴任しており、以前から「是非来た方が良い」と誘ってくれていたからです。
ここで、まずはブータンの基礎知識を・・・。
ヒマラヤ山脈東側にあり、中国とインドに挟まれた山岳地帯に位置する国。高いところで標高は7000メートルで、街は2500から3000メートルくらい。富士山よりも高い標高3800メートルにも生活道路が走る。面積は九州よりやや小さく、人口は九州全域の5%に当たる約70万人。労働者の約7割が農業を営み生活している。チベットから影響をうけた敬虔な仏教国である。2006年までは鎖国状態の政策であった。
この国の国王は、仏教文化の伝統的なライフスタイルが国民の幸せにつながるとして、「国民総生産」よりも「国民総幸福」が大切と訴えている。
有名な話だが、国民の生活は、国連による貧困レベルを下回っているにもかかわらず、アンケート回答者の96%の人が「幸福だ」と回答したそうだ。 (私の会ったブータンの人の100%がそんなはずはないと言っていたが、、、)
羽田空港からバンコク経由で12時間かかって、ブータンの窓口パロ空港に到着。いよいよ「最後の秘境で昔の日本に出会える国」に上陸である。
パロに着いてゾンと呼ばれる城跡を見学。その大きさと美しさに圧倒される。このゾンは、半分は僧院、半分は役所として使われていて、入り口には六道(地獄から天上界)までが描かれた美しい色彩の巨大な壁画があった。輪廻転生を強く信仰しているようである。
ゾンを訪れたあとは町のレストランではじめてのランチ。どんなものが出てくるかドキドキしながら待つ。運ばれてきたのは赤米と、野菜の炒め物で、全体的に黒っぽい料理。食べてみると、ブータン料理は辛いと聞いていたが、これはそれほどでもなかった。また、よく見ると肉が入っている。
ブータンの人は殺生をしないが肉を食す。昔から山岳地帯では干し肉を保存食としていた。肉はほとんどインドから輸入しているのだ。つまり自分で手を下さければいいという解釈らしい。町なかで乱暴に枝を落とされた木を見かけた。斧とは鉈によって枝をぎざぎざに叩き切られたような有り様である。小森氏によると、薪にするため木を切るのだが、ギリギリのところまでは切るが最後の一打ちはせずに放置するのだそうだ。風や雨などの自然の力によって落ちるのを待つのである。こうすることで、殺生したことにはならないのだそう。
こんなエピソードも聞いた。ある時みずたまりの前に座っている人がいたので小森氏が覗いてみると、彼は溺れている何百匹という虫(日本の蚊ぐらいの小虫)を助け出そうと箸で一匹一匹外に出していたそうである。 このように、穏やかに穏やかに暮らしている人々が多い国なのである。
「この世の生き物は生まれ変わった誰かかもしれない」ので、殺生はしない。助け合いの精神が生きているので、ホームレスもいないという。
実際私達が出会ったブータンの人はみんな純粋で素朴でやさしい人ばかりであった。「つづく」
2011年4月26日
武蔵鐙(ムサシアブミ)
本堂前の枝垂れ桜の足下にひっそりと生えているので、探して下さい。
●わが国の本州、関東地方以西から四国・九州、それに朝鮮半島や中国に分布しています。海岸に近い林内の湿ったところに生え、高さは30~60センチになります。葉は3出複葉で、小葉は卵形です。3月から5月ごろ、真っ直ぐに花茎を伸ばして、暗紫色から緑白色の仏炎苞に包まれた花を咲かせます。名前は、仏炎苞のかたちが武蔵の国で作られていた馬具の鐙(あぶみ)に似ていることから。この塊茎は有毒ですが、漢方では天南星(てんなんしょう)と呼んで、薬用にされます。
●サトイモ科テンナンショウ属の多年草で、学名は Arisaema ringens。英名は Jack in the pulpit, Musasi-Abumi。
( 「植物図鑑 Weblio辞書」より)
2011年4月21日
満開ー御衣黄
今門前の御衣黄が満開です。すこしずつピンクなっていきます。
ギョイコウ(御衣黄)は、サクラの栽培品種である。開花時期はソメイヨシノより遅めの4月中旬~下旬頃(東京や京都など)。 大きさは中輪~大輪の八重咲き(花弁数は10~15程度)で、花弁は肉厚で外側に反り返る。色は白色から淡緑色である。中心部に紅色の条線があり、開花時には目立たないが、次第に中心部から赤みが増してきて(紅変)、散る頃にはかなり赤くなる。場所や時期によって、花の大きさや色合いなどに大きな差がある。緑色の花を咲かせ、この緑色は葉緑体によるもので、同じく葉緑体をもつ鬱金も若干緑色がかかるのだが、その量が少ないためにもっと薄い淡黄色である。また濃緑色の筋の部分には、鬱金の花にはない気孔も裏側に存在する。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)