In Sri Lanka
2024年2月15日
In Sri Lanka
友人から誘われ、このたびスリランカへ行ってまいりました。珍しく法事の予定がなく、またコロナもすこし落ち着いてきた時というグッドタイミングなお誘い。
旅の目的は、戦没者慰霊と仏教寺院の日曜学校視察、仏教遺跡参拝で、五名のツアーです。
日本から九時間半のフライトでコロンボのバンダラナイケ空港に到着しました。今夏の日本がとてつもなく暑いせいか、東南アジアのスリランカの方がちょっと過ごしやすく感じる不思議。
公用語シンハラ語で「聖なる光輝く島」という意味を持つスリランカ。空港からホテルに向かう道すがら、早速その名のとおりの素晴らしいサンセットを見ることができました。
さて、楽しみの食事はやはりカレーです。ダル(豆)、チキン、シーフードとさまざまで、ココナツで煮込む辛めのものが主流。お米はパラパラとした食感のインディカ米です。お皿の中央にごはん、その周りを囲うように数種類のカレーを盛るのがスリランカカレーのスタイル!ごはんとカレーを少しずつ混ぜ合わせ、味の変化を楽しみます。とても美味しいのですが、どこへ行ってもカレーばかり出てくるものですから、旅の終わり頃には、カレーはもう・・・という感じでした。
初日はニゴンボという漁港町に宿泊です。
朝食後、さっそくフィッシュマーケットの見学に行きました。種類も豊富なギラギラした魚たちが台の上に並べられています。アジ・カツオ・マグロ・タチウオ、イカや大きなカニなどなど・・・。気温も高く強い日差しが照りつける中、ときおり上から水をかけるだけの品質管理ですから当然魚のにおいもキツく、履いていたビーチサンダルについたにおいがなかなかとれず苦労しました。マーケットの先には漁港があり、周囲の砂浜に水揚げされた膨大な数の魚が開かれ干されています。まるで魚の絨毯のような光景でした。
そのあと同行のYさんが以前ガイドしてもらったというサラットさんのお宅を訪問しました。「ガイド御殿」ともいえる豪邸には、本納寺の祖師像と同じくらい立派な釈迦像がありました。
サラットさんが「コロナでガイドの仕事に大打撃を受け、体調を崩しガンになり、泥棒にも入られたりして、近年とても大変ではあったが、今こうして元気でいられるのはお釈迦さまのおかげです」と、さらりとお話になるのを聞き、スリランカの方の信仰の篤さを垣間見た思いでした。
7割がシンハラ人、2割がタミル人、そして1割がスリランカ・ムーア人という構成のスリランカは、仏教を国教としながらも、ヒンズー教、イスラム教、キ
リスト教などさまざまな信仰を持つ人々が住んでいます。人口の約70%が仏教を信仰しており1,400万人の信徒がいるとされていますが、近年、中東資本の影響が強く、これに伴ってイスラム教が増加し、今後の仏教のありかたが危惧されているとのことでした。
夕方には、ニゴンボラグーンの南部にある運河をめぐるサンセットクルーズに出掛けました。オランダ政権時代にスパイスなどの物資を運んでいた延べ長さ約 1 0 0キロメートルほどの運河で、周囲には当時建てられた教会や漁村があり、歴史を感じさせる観光スポットです。離れ小島には猿が生息しており、餌(椰子の実)をくれと寄ってきます。甲板に飛び乗った猿があまりに近くにくるので、少したじろいでしまいました。美しいニゴンボの緑や民家、地元の漁師の船を眺めながらゆったりとした時間を過ごせるのでおすすめです。
翌日は、旅の目的のひとつ、コロンボ市内のボレッラ墓地の中にある日本人墓地に移動。今から80年前の1942年4月5日、日本海軍がコロンボを空襲、4月9日にはトリンコマリーを襲撃しています。これらを含む「セイロン沖海戦」※(1)で犠牲になった方々の慰霊に訪問したのです。敷地内には牛が放牧されていて、のどかに雑草を食べていました。「達彦記」(つづく)
※(1)日本から見て南方の連合国の重要軍事拠点(香港、マニラ、シンガポール)から米英勢力を一掃することと、重要資源地帯(スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベス、マレーなど)を攻略確保することを目的としていました。この南方作戦の終盤に実施されたインド洋作戦において起きた戦いが「セイロン沖海戦」です。1942年3月8日、日本陸軍はビルマの首都ラングーン(現在のミャンマーの最大都市ヤンゴン)を占領し、全ビルマ制圧作戦を進めようとしていました。そのためには海路からの軍需品輸送が不可欠です。しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがありました。