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お会式レポート29

2018年1月1日

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

講演「走り続ける浜通りからの報告—大震災と原発事故」を聴いて
佐々木美奈

 東日本大震災の原子力発電所事故に関するその後の福島県の状況についての講演会が行われると聞き、興味を持って参加した。
 実は、私は二年前に本納寺の奥様、陽子さんと福島県の原発事故の被害状況を見るというスタディーツアーに参加したことがある。その時のガイドをしてくださったのが里見先生と小森先生だった。縁とは不思議なもので、偶然にも、里見先生とご住職は古い友人同士だったことが旅行中にわかった。あまりに驚きクラクラした。今回の講演に至っては大変感慨深い。
 さて、講演会で印象的だったお話は、地震で亡くなった人(直接死)の人数は変わらないが、地震の後遺症で亡くなる人の数(関連死)は毎日増えていくのだそうだ。最近メディアではあまり取り上げられなくなったが、今も苦しんでいる人は多く、ゴーストタウン化した町も手付かずのままだという現実を知った。想像と現実は大違いだった。
 二年前のスタディーツアーで、メディアで知らされない繊細な部分などにも触れて、自分なりに解釈し、生の状況を知る大切さを感じたのに、二年経ち、この講演会を聴くまでは被災地情報に積極的に関心を寄せることもなく、その間自分の中では都合よく復旧も進んでいるのだろうと勝手な期待をよせていたのは大間違いだったことがわかった。
 「防災」ももちろんだが、忘れてはならないという意味での「忘災」も大事だと意識した。
 講演会のあとは恒例の「すいとん」をみんなで楽しく食べた。毎年この「すいとん」は、お出汁も美味しく、珍しいきのこもたっぷり入っていてとても美味しい! お寺の中で、時間をかけて手間暇かけて作ってくれるこのすいとん。誰でも親切に受け入れてくれる振る舞いが暖かい!
 ここは都心の中にあるお寺なのに境内は自然の気が流れていて、とても落ち着く。ススキが秋の風情いっぱいだ。電磁波いっぱいでキリキリしているオフィスから仕事帰りに行ったら、ホッと脳ミソがリラックスできた。
 たくさんの人との触れ合いに改めて感謝し、ホクホクした気分になって家路についた。

29年おもちつき大会のお知らせ

2017年12月14日

おもちつき大会のお知らせ

日時122810時~13時頃まで

毎年恒例「おもちつき大会」のごあんない!
今回も大人気の「ミニ鏡餅コーナー」があります。いつも、これで体中真っ白けになるお子さんも少なくありませんので、エプロンをご持参頂いた方が良いかもしれません。
参加自由ですので、お子さん、お孫さん、ご親戚、お友達などお誘い合わせの上お越し下さい。会費はありませんが、お気持ちは熊本に募金してください。

昔、「餅をつく」といえば、たんに食べ物をつくるという以上に「祝いごと」としての「心の行事」すなわち宗教的行事であったはずです。これからの子供たちに、ぜひ体験してもらいたいと願っております。

IN Nepal 4

2017年11月20日

IN Nepal 4

 そのあとはパタンの町を散策です。パタン・ダルバール広場にある旧王宮を見学しました。16世紀から18世紀にかけて建てられたもので、周囲には寺院が立ち並び、世界遺産にも認定されています。地震で傾いてしまった塔は、つっかい棒で支えられていました。修復しようという気配はありません。日本の感覚では「立入禁止」のような所ですが、広場にはいろいろな店が出ており、観光客や地元の人たちで賑わっていました。また釈迦族が当番制で護っているという周辺のお寺にもお参りできました。
 カトマンズで滞在したホテルに、サッカーのネパール代表の技術委員長が滞在していると聞き、夕飯をご一緒させていただきました。現在、ネパール代表の監督、ならびに技術委員長は日本人なのです。話しているうちにT氏が私の大学の大先輩であることが判明。私と同地区でサッカーを指導していた時期もあったそうで共通の知人がいたり、ミャンマーでお会いした女子サッカー代表監督のK氏もご友人だったりで、いろいろと話が盛り上がりました。
ネパールのサッカー事情や言葉の違う国で指導する際の苦労話などの興味深い話も聞けました。
 嬉しい出会いだったので「先日サッカーをした中でとてもうまい子がいたので、スカウトしてあげて下さい」と頼んでおきました。その夜、先日お会いした釈迦族の方とヨーロッパサッカーの深夜放送を一緒に見る約束があったので、T氏もお誘いし、釈迦族の方のお宅で試合を観戦。楽しい思い出となりました。
 翌日はお釈迦様が誕生したといわれるルンビニーへは、飛行機で移動です。ネパールでは最近たて続けに小型機が2機墜落しており、自分が搭乗する飛行機の小ささ(プロペラ機の中型)を見た時、かなり動揺しました。日本の家族からも「気をつけて」とメールが来ましたが、気をつけようが無いので余計怖いという・・・。びくびくしながら乗りましたが、窓から見えるヒマラヤ山脈の美しさに、すっかり気分が良いフライトになりました。
 ルンビニーでは、まずカピラ城跡へ。かの有名な生老病死の四門出遊の場所です。
 城跡すぐのところに西門がありました。さらに奥に進んでいくと、僧院跡の遺跡、沐浴されていたという池があり、最後に東門跡がありました。お釈迦様がいた頃はどうだったのだろう、この門から出て,老人や病人を見たのだろうかなど、同じ場所に立ち2600年前に思いを馳せました。
 そしてマヤ堂にお参りです。
マヤ夫人の脇の下から生まれたお釈迦様が、すぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、『天上天下唯我独尊』と唱えた伝説の場所です。門からは土足厳禁。裸足にならなくてはいけません。
中に入るとかつて城壁だったであろうレンガの山があり、その中に、お釈迦様が初めて地に触れたとされる場所がありました。その部分だけガラスで保護されています。またまた、タイムスリップ。ゆっくりと深呼吸をして、謹んで手を合わせました。
 それからは車で7時間の大移動。お釈迦様涅槃の地、インドのクシナガラに向かいました。国境を越えるとがらりと雰囲気が変わりました。道路の舗装がなくなり、ネパールに荷物を運ぶトラックの長い列、我先に行こうとする車のクラクション、埃だらけの商店街、よどんだ空気、行き交う人の多いこと!
腰痛を押しての渡航だった私にとっては、未舗装の道路行はかなり辛いものになりました。
 夕方になってクシナガラ着き、涅槃堂に参拝。
中に入ると、全長6mの涅槃仏が横たわっていました。5世紀初頭のものといわれています。この涅槃像は足下から拝すると死んでいる顔に、中心から拝するとやさしく平和な顔に、顔の前から拝すると笑顔に見えると説明を受け、そう思って拝してみると確かにそのように見えました。
 お堂に座して、謹んで一読。涅槃像のまわりは座って瞑想する集団や読経をする僧侶・仏教徒でいっぱいで、ミャンマー・韓国・ネパール・台湾・ベトナムなど世界各国からの参詣者が絶えないようでした。
 お供え物は頭部付近に、灯明やお香は中心部にお供えされていて、お像には、緋や木欄色の布が幾重にも布がかけられています。閉堂時間になり、涅槃堂の僧侶がお像に掛けられていた布をかたづけていたので、帰り際に覗くと、最後の一枚は金色でした。
 それとインドですから食事はもちろんインドカレー。本場のカレーはとても美味しかったです。
 最終日は地震被災地の視察です。まずカトマンズの王宮跡、ダルバール・スクエアーへ。世界遺産にも指定されていますが、かなり損壊が見られ、以前の写真と見比べると、その姿の違いに驚きます。いくつかあったはずの塔の頭がなくなっていました。次は、カトマンズ郊外のブンガマティという町へ。このあたりは農家が多く、地震がきた昼は、ほとんどの人が畑に出ていて屋内にはいなかったそうですが、それでも数人の死者が出ています。建物はほぼ全壊で、以前町の中心に寺院が立っていたと聞いたときは信じられませんでした。その痛々しく崩壊したままの場所で、何事も無かったように元気よく遊んでいる子供たちの姿には複雑な気持ちになるものです。
 近くへ行ってみると、崩れたレンガの中からまだ使えそうなレンガが拾い集められていました(カトマンズ周辺いたるところでも同様)。それをまた昔と同様にセメントや粘土で積み上げていくのだそうです。また地震がきたら同じ事になってしまうのではないでしょうか。
 地震によって町や家が壊れても、電気やガスがなくても、みんな前向きに生きているネパール。危機的な状況にも関わらず、それを受け入れて生活していくネパール人のポジティブさを肌で感じ、支援に行ったつもりが反対に元気をもらって帰って来た旅となりました。「達彦記」(終)


IN Nepal 3

2017年10月18日

IN Nepal 3


(IN Nepal 2より続く)
 翌日は、カトマンズから車で1時間半くらいのトリブバン・アダーシャ小中学校に行き、サッカーゴールとボール・ユニホームを寄贈しました。
 全校生徒が校門から列をなして待ってくれていました。門に入る前に、歓迎の印のカタ(襟巻きみたいなもの)を首にかけてもらい、列の中を進んでいきます。子供たちが口々に「ナマステー、ナマステー」と迎えてくれるので、こちらも合掌しながら「ナマステー、ナマステー」とご挨拶しました。
 校庭での寄贈式では、まず、子供たちの発育と幸福を祈り、ご祈祷を厳修。その後「私たちはサッカーを契機にして、みなさんと出会えることができて幸せです。サッカーは、ボールひとつで、言葉が通じなくても、年が違っても、性別が違っても、人を結びつけることができます」とお話しし、ボールとユニホームを渡しました。
 早速、お互い着替えてサッカーの試合開始です。支給されたユニホームに身を包んだネパールチームが登場しました。我々日本チーム(保育士さんたちも出場)とネパールチームとの国別対決で「絶対に負けられない戦い」です。お互い握手を交わし、ギャラリーにも挨拶。このやりとりに彼らは照れながらも嬉しそうです。
 いよいよキックオフ。開始早々、ネパールチームにいきなり攻め込まれ、日本チームまさかの失点。サッカー部OBが3人いたので大丈夫だと油断していました。目を輝かせてボールを追いかける子どもたち。良いプレーをジェスチャーで褒めると得意顔です。心からサッカーを楽しんでいることが伝わってきてこちらも嬉しくなります。慌てて反撃を試みましたが、奮闘虚しく結果1-4で負けてしまいました。
なかなか上手な選手もいて、このようなでこぼこのピッチではなく、もっと良い環境であれば、かなり上達するだろうと思いました。
 「好きなサッカーで、子供たちを笑顔にしたい」という気持ちから始まったこのサッカー支援ですが、ミャンマーに続いてネパールでも想いを叶えることができて感激したひとときでした。
 次はパタンにあるバッサラ保育園を訪問しました。ここでもまた入り口でカタを掛けてもらい、子供たちの列の間を進み、「ナマステー」とご挨拶。ステージで踊りや歌を披露してくれました。保育園くらいの子供たちによるかわいい踊り、小学生くらいの子供たちは、お化粧をして、衣装をつけてのネパールの民族舞踊、中学生くらいの子供たちは日本の「四季の歌」を歌ってくれました。
 ここは尼僧さんが運営している施設で、地震があってからは、保育園のほか、小中高生(12年生)を引き受けているそうです。それほど大きくない施設に、現在500人の生徒がいるそうです。園長先生は「地震によって親をなくした子がいますが、卒園生が立派になって、国や経済の中心で働いているのが誇りです」とおっしゃっていました。
 お土産に持って来た日本のお菓子を保育士さんたちが子供たちに配って、大変喜ばれました。
 帰国後ネパールからメールが届きました。
「今回の釈迦族支援で、釈迦族のなかで、困窮して学校に通えない子どものうち、一名が通学することになりました。シュリーニシュ君は11歳。5年生でパタンに住む釈迦族の子どもで、今回の地震で住居に大きな被害を受けました。両親は経済困窮者で、彼を通学させることができませんでしたが、今回訪問して下さったバッサラ学校の校長にお願いして、4月18日から同校の新学期に入学することができました。大変優秀で、テストで75点とりました。深く感謝申し上げます。」
お役に立てて本当に良かったです。「達彦記」(つづく)


29年お会式ご案内

2017年10月6日

実験教室ーImpressions

2017年9月25日

=参加者から=


「太陽と地球の距離が思ったよりも遠かったのでびっくりしました。ボールや米粒を使って、太陽と地球の距離を見られたので、とても分かりやすかったです。あと、地球の歴史の中で、人間達の歴史がとても短かったのが意外でした」(六年生)
 「身体尺を見つけるのが楽しかったです。もうちょっと、時間を短くして欲しかったです。最後にパンとジュースが貰えて嬉しかったです」(四年生)
 「太陽系の惑星の距離感が、実感できてよかったです。太陽、地球、月の大きさを、今までちゃんと考えたことがなかったのに、太陽を直径50㎝にした場合、地球がごはん一粒を丸めた4㎜で、月がたらこ一粒の1㎜っていうのは、もう一生忘れないって思いました!地球と月って近いんだなぁーってしみじみ思いました」(保護者)
 「時間の流れを長さに例えるのが、とてもわかりやすかったです。ピンとこなかったものが、納得できた感じです。あと、子供の身体のあちこちを測ってみたくなりました。とても楽しかったです!また、日にちが合えば、参加したいです」(保護者)

この世の大きさと古さを考えてみよう

2017年9月8日

夏休み子供科学実験教室


 夏休み子供科学実験教室7月27日、小学生10名の参加で本納寺科学実験教室が開かれました。
 まず、歩幅を使って日本地図を書いた伊能忠敬の例を聞いてから、身体尺を学び、各自の両手をいっぱいに開いた長さ「尋(ひろ)」を測りました。ほぼ身長と同じ長さです。参加者全員の尋を合わせると、約15mになりました。
 それから自分の身体で1m、50㎝、15㎝、5㎜、1㎜などの部分を見つけるために隣の人と測りっこしたり、自分の爪の厚みを測ったり。これを知っていると、測る道具を持っていなくても大体の長さが分かってとても便利です。
 ここから話は宇宙へ飛びます。「太陽と月と地球って、どのくらいの大きさだと思う?」みんな見当がつかなくて困惑・・・。
 「この赤い直径50㎝のボールを太陽とすると、地球はご飯一粒、月はタラコ一粒の大きさなんだよ」太陽、巨大。月って意外と小さいね。「では、どのくらい離れているかわかるかな?」またもや困惑・・・。
 「太陽と地球は46m、地球と月は13㎝」えー、月、近い。
 というわけで、みんなで境内に出て太陽ボールから46mを測ってみることにしました。どうやって?そう、さっき測ったみんなの尋で!
 境内の灯籠あたりに太陽を置き、両手を広げて横一列に並びます。それをまっすぐ三回繰り返したら、墓地の塀に突き当たりました。そこに地球、そして月。自分たちで測ると、距離感がよくわかります。
 そのあと、地球誕生からの46億年を460㎝のメジャーに置き換えて「陸地ができたのはこの辺」植物の誕生はこの辺」「人類の誕生はこの辺」と、印を置いていきました。そうすると、人類が誕生したのなんてほんの最近のことで、みんなびっくり。
 時間と距離を感じたところで趣向を変えて工作です。みんなの生まれた日の天気を印刷した紙を切って、小さいボールに貼ったら、自分の生まれた日の地球ができあがりました。
 途中、先生のお話が難しくなって、見学の大人のほうが身を乗り出して聞いていた場面もありましたが、3時間、みんな集中してがんばりました。最後に先生からの一言「どんどん成長している皆さん、身体尺も変わるから、ときどき測り直してね」。

 

In Nepal 2

2017年8月21日

IN Nepal 2

 謹んで、世界平和、釈迦族の隆昌、先祖供養等の法会を厳修したあとは、居間に移動し、お食事を待つ間、釈迦族の昔話からなるお話が聞けました。
 「2600年も昔の話。コーサラ国の王が釈迦族の妃を釈迦国から迎えたいと願ったが、釈迦族はプライドが高く、釈迦族同士の婚姻しか認めない。血を混ぜない、あんな国に嫁入りさせるなんて等々という理由もあって、深く悩んだ末、大臣が「召使いの中に、とびきりの美人がいるので、身なりを整えさせ、私の養女として迎え、王族の娘として嫁入りさせればいい」と考え、その女性をコーサラ国へ出した。
 王とその女性の間には、息子(王子)が生まれた。王子が8才の時、故郷の釈迦国に訪れた際、自分が召使いの子であると知ってしまった。カースト制のある時代ではとんでもないことに王子は憤慨し釈迦族に恨みを抱きコーサラ国に戻った。やがてコーサラ国の王が亡くなり、自身が王位につくと釈迦族を攻めて壊滅させた。その時釈迦族の人たちが流した血は湖になったと伝えられている」あくまで釈迦族の人たちからの話ではありますが、その時、命からがら逃げのびて、今のカトマンズの山麓にたどりついた末裔の人たちがその日そこに集まった人々ということでした。※1

 釈迦族の末裔の人々は手先が器用で、ネパールの伝統技術集団です。パタンの町の細く狭い路地を歩くと、レンガ作りの家からは「カチカチカチ」と彫金の音が響いていました。工房では、数百年間続くシンプルな道具を以て、繊細な彫金によって仕上げていく多くの行程を見ることができ、数百年の歴史を守り今に伝えています。
 また、釈迦族のきまりとして、必ず男性は皆、出家するそうです。現在は、「釈迦族だから」「仏教徒だから」という差別は無く、釈迦族は現在50万人いるとのこと。ただ釈迦族同士の婚姻だけではなくなっているので、純粋な釈迦族は少なくなっているそうです。日本で聞いてきた「差別や貧困で困っている」という話と違うな…と思いながらも、興味深くお話を伺いました。

 ネパール家庭料理、ダルバード(豆カレー)や野菜の炒め和え物が並びました。気を遣ってくれたのか、あまり辛くはありませんでしたし、スパイスが効いていて非常に美味しかったです。ネパールの家庭で飲まれている伝統的なお酒、エイラも勧められました。これは米焼酎のようなもので、アルコール度数は70度!火を付けたら炎が出て、電気不足で薄暗い部屋に美しく灯っていました。彫金加工されたドリップポットを上に掲げ、下の盃(これも美しい彫金加工)に注いだものを飲むのです。お酒の飲めない私は舐めるだけでしたが、舌が痛くなるくらいカーッとしました。他のメンバーは「これは美味しい!でも、きついねー」と言っていました。
「達彦記」(つづく)

※1コーサラ国王は釈迦国に攻め込む途中、お釈迦様に出会います。そこで説法を聞いた王は兵を引き下げました。しかし、また怒りがこみ上げ釈迦国を攻めようとします。するとまたお釈迦様に出会い、兵を下げました。同じことが三度あったのですが、四度目にはお釈迦様の姿は見えませんでした。弟子の目連が神通力でカピラ城(釈迦国)を救おうとしたのですが、「釈迦族の積んだ業の報いは、自ら受けるより仕方がない」とお釈迦様はおとどめになりました。お釈迦様は三度目まではかつての故郷、親族の人々の為に滅亡から救おうと努力されたのですが、四度目には因果応報の理にまかせられたのです。ここから「仏の顔も三度まで」と言われるようになりました。

IN Nepal 1

2017年7月29日

IN Nepal

仏教支援で、ネパールに行って来ました。
ネパールには今も、お釈迦さまの子孫である釈迦族(サーキャ族)が生活しています。
釈迦族はその昔、強国であった隣のコーサラ国によって滅ぼされたとされていますが、その生き残りの子孫です。インド同様にヒンズー教が強いネパールでは、仏教徒である釈迦族は虐げられ、大変な生活をしているということから、その支援でネパールへいくことになったわけです。
また、先の地震で被災したネパールの子供たちへ、前回のミャンマー同様、現地の保育園・小学校を訪問し、食料品・備品などの支援をして、一緒に遊んで楽しんでもらうことも目的でした。今回は、いつもの僧侶メンバーに加え、N保育園の保育士さん2名、そして私がコーチしている地元中学校のサッカー部OB3名が参加し、総勢9名での訪問になりました。
トランジットを含め17時間をかけ、首都カトマンズに到着。朝晩は冷え込みますが、日中は少し暑いくらいで日本と変わりません。山岳地帯だからか、東南アジア特有の「もわっ」とした湿気も感じられませんでした。
まずは車に乗って、ガイドのスメットさんのお宅へ向かいました。ガイドさんご自身が釈迦族で、彼のお宅に釈迦族の皆さんが集まってくれているとのこと。
旅行前に、ネパールをよく知る友人から、「道がデコボコ」「電気事情が悪い」など、ネガティブな情報を聞いていたのですが、いざ町中に出ると、道は思っていたよりも平らでした。それでも日本に比べればそれはそれはガタガタで、空は砂・土埃なのか、もやがかかっています。何より目についたのは、何本も複雑に張り巡らされている電線でした。どれがどこにつながっているか全くわかりません。ぐしゃぐしゃにからみあっています。道にはお店がたくさん建ち並んでいて、歩行者だけでなく、座り込んで道を眺めている人や、集団であれこれ喋っている人たちでいっぱい。信号の無い車道もかなりのバイクや車が行き交い、クラクションが鳴り響いています。
しばらく行くと、長い長いバイクの行列が目に入ってきました。ガソリンを待つ列なのだとか。東日本大震災があった時、日本でも流通が止まり、ガソリンスタンドに行列ができたことを思い出して、納得しかけると、なんと、この行列は地震の影響ではないということ。
インドからの輸入に多くを頼っているネパールの物資不足は深刻化しており、特にガスとガソリンはすべてインドからの輸入のため、両国の関係が悪い現在、入手が困難になっているとのことのでした。この列だと1日待っても入手できないのではないでしょうか。
またその資源不足により、ネパールでは一日のうち14時間は停電している状態でした。ホテルでは自家発電なので、私たちには影響はありませんでしたが。
そうこうしているうちにガイドのスメッドさん宅に到着です。予想外の豪邸。あれ?聞いてきた「大変な生活」は???と考えているうちに、仏間に案内されました。そこには30人ほど釈迦族の方々が集まっていて「ナマステー」と出迎えてくださいました。お釈迦様の子孫と会えたことに感激しました。そして、まずは謹んで、世界平和、釈迦族の隆昌、先祖供養等の法会を厳修いたしました。「達彦記」(つづく)


夏休み子供科学実験教室開催のご案内

2017年7月4日

夏休み自由課題の宿題に最適

「この世の大きさと古さを考えてみよう」
この夏は空間と時間がテーマです。「空」ってどれくらい大きいの?宇宙や地球の「歴史」ってどれくらい長いの?をズバッと理解できる模型を参加者みんなで作ります。
最後には参加者の特別な日をテーマにした工作もあります。
詳しくは、、、7月27日まで秘密です^_^


                                             記
日 時:平成29年7月27日(木曜日) 10時から13時まで
場 所:本納寺信徒室
対 象:小学1年生〜6年生 (中学生・付き添いの方の見学可) 
定 員:20名(定員になり次第締め切らせていただきます)
会 費:500円(軽昼食付)
持ち物:筆記用具
参加ご希望の方は、本納寺(03-3971-4384)まで、お電話にてお申し込みください。
お名前、学年、参加人数をお知らせください。

 

講師紹介

komori小森次郎(こもりじろう)1969年練馬区生まれ。地学系の学科を卒業後、ダムや発電所の建設前に行う地質調査の会社(地質コンサルタント)で働く。その後、大学の実験助手、大学院生、小学生理科実験教室講師、大学非常勤講師、ブータン王国への国際協力派遣(JICA専門家)。現在は帝京平成大学で自然環境、地学、博物館学の科目を教えてます.ツイッター「jirokomori」.

寺ねこニイ

2017年6月12日

遊んでください

昨夏、墓地で保護された2匹目の寺ネコ、ニイが1歳になります。ニイは、やんちゃですが、先住猫(3歳)のレイと違って人懐っこい性格で、ネコ好きのお檀家さんに抱っこしてもらったりして可愛がられています。

再会-In Guilin

2017年5月20日

桂林 帥民風先生  


 三月下旬、中国桂林に行く機会がありました。住職の書道・篆刻の師であり、以前本納寺の写経会で指導してくださっていた帥民風先生にお会いできました。十三年ぶりの再会でした。
 使う機会があまりないということでしたが、日本語もまだまだお上手で、懐かしい話に花が咲き、あっという間に時間が過ぎていきました。
 帥先生は現在、広西大学美術学院の学院長をお務めです。
 作品を下さいましたので、本納寺に展示しました。

東日本大震災七回忌法要

2017年5月1日

まだまだ復興は終わっていない 影山海雄  

 ¦¦まだまだ復興は終わっていない¦¦
 武山興業の社長がおっしゃった一言を重く受け止める今回の慰霊法要でした。
 
平成29年2月22日、本納寺の住職を中心として、日蓮宗教師4名で東日本大震災における犠牲者慰霊のために宮城県石巻市を訪れました。石巻市に構える武山興業は本納寺の御檀家さんで、平成23年の東日本大震災において甚大な被害を受けました。その直後から、この一行は毎年石巻を慰霊の為に訪れており、今回が6回目となります。
仙台駅からレンタカーを借り、高速を降りて「上品(じょうぼん)の郷」という道の駅へ。今回の法要に使用するもの(お米やお花等)を買いお昼を食べました。私は天ぷら蕎麦を頂きましたが、隣の上人は海藻のたっぷり入ったラーメン。やっぱり現地の特産物の入ったものにすれば良かった・・・(天ぷらが石巻自慢の野菜でしたらすいません!)と思いつつも美味しく頂きました。
その後、武山興業にお邪魔して衣に着替えをさせて頂きました。流れの穏やかな北上川沿いに位置する武山興業は従業員の皆様も穏やかな雰囲気で温かく迎えて下さいました。
この度慰霊法要をさせて頂く場所は以下です。
・旧北上総合支所跡
・大川小学校慰霊塔
・旧武山邸跡
・日和山(ひよりやま)山頂
 武山興業から法要の場所までの道中、10メートル以上の高さはあると思われる堤防がたっておりました。「毎年景色が変わっていくな・・・」とつぶやく本納寺住職の言葉が印象的です。復興が少しずつではありますが、進んでいる姿を見ることが出来ました。
 この度は、最初の2か所で事前に法要を行う旨が告知されていた(新聞にて)こともあり既に会場にはご遺族の方や土地の方がいらっしゃっています。2月の、肌を刺すようなからっ風が吹く中、寒い寒いと感じておりましたが、ふと当時のことを想像します。あの日も雪が散らついていたと聞きます。どれほど怖かっただろう、どれほど寒かっただろう。大川小学校は震災の爪痕が激しく、校舎は柱を残して全て空洞になり、校舎と校舎を繋いでいた渡り廊下のようなものは折れ、錆びた椅子が校舎の中にポツンとあります。あの椅子に座り毎日授業を受けていたんだろう。全壊した体育館の壁には子供達が書いたのか、宮沢賢治の銀河鉄道の絵や世界中の人が手を繋いでいる絵が残っておりました。きっとこの絵は子供達の夢や希望をのせて書いた絵なのだろうと思うと涙が出ます。
 お釈迦様は「この法華経は一切の苦悩を取り除く」とおっしゃっています。法要が始まり、お経をあげる中で、どうかお釈迦様の思い・慈悲がこの地に、草花に、石ころに染みわたり、眠られている皆さんを包み込んで欲しいと声を上げました。ふと慰霊碑に目を向けると寒い冬の時期だからなのか、お地蔵さんに帽子とマフラーが巻かれております。この心優しい土地の方々が幸せになりますように、震災で亡くなられた方々に安心が得られますように、無事であった方々、復興に向けて頑張っている方々が健康でありますように、と願わずにはいられませんでした。
 法要後に森部上人がお集まりの方々に「私達が普段生きている1日はお亡くなりになられた方がどうしても生きたかった1日かもしれません。亡くなられた方々を無くして私達は生きられません。今ある命に合掌をしなければなりません。」と述べられました。
 法要後、武山興業にてお茶を頂きました。武山興業の社員の方も大切な御家族を亡くされている方がいらっしゃいます。また、以前勤められていた方で奥様を失い心に穴が空いてしまったかのように無気力になってしまった方々もいると聞きました。そんな状況でも社長はおっしゃいました。「私達が生かされていることには理由がある、供養を続け、町を復興させる使命がある」目には力強い光が宿っていました。
 法要を行う場所に行った時に思いました。こんな場所まで津波がきたなんて、と。海からとても離れている場所です。では当時どう行動することが正しかったのでしょうか。私は東京で震災を体験しましたが、とにかく動けませんでした。東北で被害に遭われたかたはなおのことそうだったのだと思います。あまりの恐怖に動けなかったのだと。確かに山を登れば助かった命は多いはずです。でも、それは結果論であって・・・。
 生きるためにその時の最善を尽くしたのは間違いありません。
 最後に、復興はまだまだ終わっていません。まだ仮設住宅で暮らしている方も多くいらっしゃいます。工事の音が静かな土地に響きます。表向きは土地が綺麗になっても人の心は簡単には立ち直れません。でも、復興の為に日々励んでいる方がいます。武山興業の社員さんに「人の命と人の財産を守ることが建設業の役割である。誇りをもって一致団結の時だと感じる」と述べられている方がいます。一生懸命歩まれている方が多い、そんな一人一人の心から希望は生れてくるのではないでしょうか。復興の為に身を削り歩んでいるすべての方に心からの敬意を表して、皆様の健康を願い、終わりとさせていただきます。

いわきスタディーツアー3

2017年4月10日

原発を考える


 今回いわき市に初めて行きましたが、車で少し走ると火力発電所、ソーラーパネルの畑、海の彼方に風力発電のお試し風車、そして原子力発電所・・・。
 恥ずかしながら、こんなに電力一色の町とは知りませんでした。
 爆発がなければ普段の生活が続いていたはずの方々の体験をいくつも聞き、「万が一にも事故はありません」という詭弁を弄して原子力発電所を稼働させてきた罪は、到底償えるものではないというのが一番の感想です。人間は、事故が起こったときに対応できるものだけ、責任を負えるものだけを作るべきなのだと思いました。
 「広い家に大家族で住んでいたが、アパートと仮設住宅に分散するしかなかった」、「地域の帰宅がOKになっても、子供の学校の関係で避難先に住み続けることを選んだ」など、被災した方から直接お話を聞いて胸が詰まりました。
 原発事故の怖さは、家はあっても放射性物質のためにもう住めないというところです。今回、富岡市、大熊市などの帰宅困難地域までバスで連れて行って頂きました。草がぼうぼうで誰もいない校庭、国道6号線路地入り口のバリケード、除染作業員しかいない町は異様でした。そこで生活していた人たちだけが消えているのですから。「除染が済んだから」と帰宅を促されても、もう元の町ではないのです。私だったら戻れないと思います。
 同じ様に考える多くの人々に「戻らないのはそちらの勝手だから補償金は打ち切り」という国や東電の対応は事故を引き起こした側が口にして良い言葉ではないでしょう。
事故は起きないから絶対安全といっておきながら、いざ事故が起こると対応しきれない。補償は言うまでもなく、爆発してしまった建物の後処理すら考慮されていなかったなんて。汚染水を保管するタンクも作り続けるしかないなんて、ばかばかしくて笑うしかありません。
 余談ですが、外国に住む姉に荷物を送ったとき、隙間にレトルト食品や、懐かしいであろう日本のお菓子をぎゅうぎゅう詰め込みました。地球の裏側まで行ったその荷物は、一ヶ月後、そのまま送り返されてきました。「日本からの食品は受け付けられません」というのが理由でした。福島の原発事故以降、この状態が続いています。姉によると「中身に食品が入っていなくても、箱に野菜の絵でも描いてあったらそれでアウト」だそうです。
世界の認識はそういうことなのです。チェルノブイリという地名を聞いて私たちが思い浮かべるイメージ、それが即ち福島、ひいては日本なのです。
 それでもまだ原発再稼働を推し進める理由が理解できません。
 一般的なメディアの報道からの情報からの知識程度で参加したスタディーツアー、目の当たりにした現実、伺ったお話がヘビー過ぎて受け止めきれていないのが実情です。平成28年1月28日(森部陽子記)

いわきスタディーツアー2

2017年3月21日

いわき「とりあえず置場」


夕食をとりながら積もる話をした後、彼から出てきたのが、今回の事故によって宿泊客が来なくなり、従業員の多くに旅館をやめてもらうしか無かったという話でした。当時120人ほどいた従業員が現在は25名だそうです。本当に辛い思いをしたと言っていました。従業員もまた被災者で、それぞれが大変な生活をしなければいけない時に、支えてあげられなかったことが何よりも辛かったと。
また「避難所で手伝いをしていた時に、障がいをもつお子さんのいる家族が避難所にいられなくなってしまった」という話も聞きました。避難生活で疲れがたまっていく中、子どもが騒いでしまい、余裕のなくなったお互いがギスギスしてきて、陰口をたたかれ、怒られ、結局は追い出されてしまったそうです。そこで、彼は郡山で一軒家を借り上げ、その家族を避難させたそうです。現在彼はそういった障がいをもつお子さんやその家族を支援するNPO法人を立ち上げ、支援しています。
いわき市内では至るところで黒や緑のシートがかぶった除染土の仮置場がありました。しかし仮置場といっても、今後どのように処分されるのかは決まっていない、ただの「とりあえず置場」です。また、地震・津波で倒壊し、放射線で汚染された家屋のがれきを焼却し、その灰を山に埋めて、その上からセメントでふさぎ、覆っている作業も目にしました。
これだけの被害があり、原発が安全ではないと分かった上、最終的な処分法も定まっていないのに、原発の再稼働なんてあり得ないと強く思います。
帰り道、いわき南部にある勿来(なこそ)火力発電所も見学しました。入り口に1トンの石炭の塊が置いてありました。軽自動車一台くらいの大きさです。一日に燃焼させる石炭の量が一万トン以上だそうで、地球のどこかで一日に軽自動車1万台分の穴を開けているということに驚きました。また技術が進んでいるとはいえ少なからずCO2を排出するため、温暖化に影響があるとのこと。日本ではもう石炭を取り尽くしてしまったから、海外からの輸入に頼っているのかと思っていたら、まだまだ日本には(常磐地区にも)石炭があるが採算を考えると輸入する方が安いからだということも聞きました。風力や水力による発電は少なく、それだけでは全く使用電力をまかなえないこと、ソーラーパネルもそれを生産すること事態、またそれをいつか処分することを考えると、決して地球に優しくないことなど、多くのことを学ぶことができました。
常磐道の脇には、高い鉄塔がならび関東まで送電線が続いていました。すべて関東で使われるためのものです。東北地方の福島(原子力・火力)で発電された電力は福島ではほとんど使用されません。自分たちが使うことのない電力を生産する施設のせいで、避難させられ大変な生活を強いられている福島の人々からみれば、何も考えずに無駄に電気を浪費する私たちの姿がどのように映っているのだろう。行きにも見たはずのこの景色を、自分がこのように捉えたことに、このスタディーツアーの意義を感じました。
平成29年1月24日 森部達彦記
 

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