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カテゴリー「その他」の記事

東日本大震災七回忌法要

2017年5月1日

まだまだ復興は終わっていない 影山海雄  

 ¦¦まだまだ復興は終わっていない¦¦
 武山興業の社長がおっしゃった一言を重く受け止める今回の慰霊法要でした。
 
平成29年2月22日、本納寺の住職を中心として、日蓮宗教師4名で東日本大震災における犠牲者慰霊のために宮城県石巻市を訪れました。石巻市に構える武山興業は本納寺の御檀家さんで、平成23年の東日本大震災において甚大な被害を受けました。その直後から、この一行は毎年石巻を慰霊の為に訪れており、今回が6回目となります。
仙台駅からレンタカーを借り、高速を降りて「上品(じょうぼん)の郷」という道の駅へ。今回の法要に使用するもの(お米やお花等)を買いお昼を食べました。私は天ぷら蕎麦を頂きましたが、隣の上人は海藻のたっぷり入ったラーメン。やっぱり現地の特産物の入ったものにすれば良かった・・・(天ぷらが石巻自慢の野菜でしたらすいません!)と思いつつも美味しく頂きました。
その後、武山興業にお邪魔して衣に着替えをさせて頂きました。流れの穏やかな北上川沿いに位置する武山興業は従業員の皆様も穏やかな雰囲気で温かく迎えて下さいました。
この度慰霊法要をさせて頂く場所は以下です。
・旧北上総合支所跡
・大川小学校慰霊塔
・旧武山邸跡
・日和山(ひよりやま)山頂
 武山興業から法要の場所までの道中、10メートル以上の高さはあると思われる堤防がたっておりました。「毎年景色が変わっていくな・・・」とつぶやく本納寺住職の言葉が印象的です。復興が少しずつではありますが、進んでいる姿を見ることが出来ました。
 この度は、最初の2か所で事前に法要を行う旨が告知されていた(新聞にて)こともあり既に会場にはご遺族の方や土地の方がいらっしゃっています。2月の、肌を刺すようなからっ風が吹く中、寒い寒いと感じておりましたが、ふと当時のことを想像します。あの日も雪が散らついていたと聞きます。どれほど怖かっただろう、どれほど寒かっただろう。大川小学校は震災の爪痕が激しく、校舎は柱を残して全て空洞になり、校舎と校舎を繋いでいた渡り廊下のようなものは折れ、錆びた椅子が校舎の中にポツンとあります。あの椅子に座り毎日授業を受けていたんだろう。全壊した体育館の壁には子供達が書いたのか、宮沢賢治の銀河鉄道の絵や世界中の人が手を繋いでいる絵が残っておりました。きっとこの絵は子供達の夢や希望をのせて書いた絵なのだろうと思うと涙が出ます。
 お釈迦様は「この法華経は一切の苦悩を取り除く」とおっしゃっています。法要が始まり、お経をあげる中で、どうかお釈迦様の思い・慈悲がこの地に、草花に、石ころに染みわたり、眠られている皆さんを包み込んで欲しいと声を上げました。ふと慰霊碑に目を向けると寒い冬の時期だからなのか、お地蔵さんに帽子とマフラーが巻かれております。この心優しい土地の方々が幸せになりますように、震災で亡くなられた方々に安心が得られますように、無事であった方々、復興に向けて頑張っている方々が健康でありますように、と願わずにはいられませんでした。
 法要後に森部上人がお集まりの方々に「私達が普段生きている1日はお亡くなりになられた方がどうしても生きたかった1日かもしれません。亡くなられた方々を無くして私達は生きられません。今ある命に合掌をしなければなりません。」と述べられました。
 法要後、武山興業にてお茶を頂きました。武山興業の社員の方も大切な御家族を亡くされている方がいらっしゃいます。また、以前勤められていた方で奥様を失い心に穴が空いてしまったかのように無気力になってしまった方々もいると聞きました。そんな状況でも社長はおっしゃいました。「私達が生かされていることには理由がある、供養を続け、町を復興させる使命がある」目には力強い光が宿っていました。
 法要を行う場所に行った時に思いました。こんな場所まで津波がきたなんて、と。海からとても離れている場所です。では当時どう行動することが正しかったのでしょうか。私は東京で震災を体験しましたが、とにかく動けませんでした。東北で被害に遭われたかたはなおのことそうだったのだと思います。あまりの恐怖に動けなかったのだと。確かに山を登れば助かった命は多いはずです。でも、それは結果論であって・・・。
 生きるためにその時の最善を尽くしたのは間違いありません。
 最後に、復興はまだまだ終わっていません。まだ仮設住宅で暮らしている方も多くいらっしゃいます。工事の音が静かな土地に響きます。表向きは土地が綺麗になっても人の心は簡単には立ち直れません。でも、復興の為に日々励んでいる方がいます。武山興業の社員さんに「人の命と人の財産を守ることが建設業の役割である。誇りをもって一致団結の時だと感じる」と述べられている方がいます。一生懸命歩まれている方が多い、そんな一人一人の心から希望は生れてくるのではないでしょうか。復興の為に身を削り歩んでいるすべての方に心からの敬意を表して、皆様の健康を願い、終わりとさせていただきます。

いわきスタディーツアー3

2017年4月10日

原発を考える


 今回いわき市に初めて行きましたが、車で少し走ると火力発電所、ソーラーパネルの畑、海の彼方に風力発電のお試し風車、そして原子力発電所・・・。
 恥ずかしながら、こんなに電力一色の町とは知りませんでした。
 爆発がなければ普段の生活が続いていたはずの方々の体験をいくつも聞き、「万が一にも事故はありません」という詭弁を弄して原子力発電所を稼働させてきた罪は、到底償えるものではないというのが一番の感想です。人間は、事故が起こったときに対応できるものだけ、責任を負えるものだけを作るべきなのだと思いました。
 「広い家に大家族で住んでいたが、アパートと仮設住宅に分散するしかなかった」、「地域の帰宅がOKになっても、子供の学校の関係で避難先に住み続けることを選んだ」など、被災した方から直接お話を聞いて胸が詰まりました。
 原発事故の怖さは、家はあっても放射性物質のためにもう住めないというところです。今回、富岡市、大熊市などの帰宅困難地域までバスで連れて行って頂きました。草がぼうぼうで誰もいない校庭、国道6号線路地入り口のバリケード、除染作業員しかいない町は異様でした。そこで生活していた人たちだけが消えているのですから。「除染が済んだから」と帰宅を促されても、もう元の町ではないのです。私だったら戻れないと思います。
 同じ様に考える多くの人々に「戻らないのはそちらの勝手だから補償金は打ち切り」という国や東電の対応は事故を引き起こした側が口にして良い言葉ではないでしょう。
事故は起きないから絶対安全といっておきながら、いざ事故が起こると対応しきれない。補償は言うまでもなく、爆発してしまった建物の後処理すら考慮されていなかったなんて。汚染水を保管するタンクも作り続けるしかないなんて、ばかばかしくて笑うしかありません。
 余談ですが、外国に住む姉に荷物を送ったとき、隙間にレトルト食品や、懐かしいであろう日本のお菓子をぎゅうぎゅう詰め込みました。地球の裏側まで行ったその荷物は、一ヶ月後、そのまま送り返されてきました。「日本からの食品は受け付けられません」というのが理由でした。福島の原発事故以降、この状態が続いています。姉によると「中身に食品が入っていなくても、箱に野菜の絵でも描いてあったらそれでアウト」だそうです。
世界の認識はそういうことなのです。チェルノブイリという地名を聞いて私たちが思い浮かべるイメージ、それが即ち福島、ひいては日本なのです。
 それでもまだ原発再稼働を推し進める理由が理解できません。
 一般的なメディアの報道からの情報からの知識程度で参加したスタディーツアー、目の当たりにした現実、伺ったお話がヘビー過ぎて受け止めきれていないのが実情です。平成28年1月28日(森部陽子記)

いわきスタディーツアー2

2017年3月21日

いわき「とりあえず置場」


夕食をとりながら積もる話をした後、彼から出てきたのが、今回の事故によって宿泊客が来なくなり、従業員の多くに旅館をやめてもらうしか無かったという話でした。当時120人ほどいた従業員が現在は25名だそうです。本当に辛い思いをしたと言っていました。従業員もまた被災者で、それぞれが大変な生活をしなければいけない時に、支えてあげられなかったことが何よりも辛かったと。
また「避難所で手伝いをしていた時に、障がいをもつお子さんのいる家族が避難所にいられなくなってしまった」という話も聞きました。避難生活で疲れがたまっていく中、子どもが騒いでしまい、余裕のなくなったお互いがギスギスしてきて、陰口をたたかれ、怒られ、結局は追い出されてしまったそうです。そこで、彼は郡山で一軒家を借り上げ、その家族を避難させたそうです。現在彼はそういった障がいをもつお子さんやその家族を支援するNPO法人を立ち上げ、支援しています。
いわき市内では至るところで黒や緑のシートがかぶった除染土の仮置場がありました。しかし仮置場といっても、今後どのように処分されるのかは決まっていない、ただの「とりあえず置場」です。また、地震・津波で倒壊し、放射線で汚染された家屋のがれきを焼却し、その灰を山に埋めて、その上からセメントでふさぎ、覆っている作業も目にしました。
これだけの被害があり、原発が安全ではないと分かった上、最終的な処分法も定まっていないのに、原発の再稼働なんてあり得ないと強く思います。
帰り道、いわき南部にある勿来(なこそ)火力発電所も見学しました。入り口に1トンの石炭の塊が置いてありました。軽自動車一台くらいの大きさです。一日に燃焼させる石炭の量が一万トン以上だそうで、地球のどこかで一日に軽自動車1万台分の穴を開けているということに驚きました。また技術が進んでいるとはいえ少なからずCO2を排出するため、温暖化に影響があるとのこと。日本ではもう石炭を取り尽くしてしまったから、海外からの輸入に頼っているのかと思っていたら、まだまだ日本には(常磐地区にも)石炭があるが採算を考えると輸入する方が安いからだということも聞きました。風力や水力による発電は少なく、それだけでは全く使用電力をまかなえないこと、ソーラーパネルもそれを生産すること事態、またそれをいつか処分することを考えると、決して地球に優しくないことなど、多くのことを学ぶことができました。
常磐道の脇には、高い鉄塔がならび関東まで送電線が続いていました。すべて関東で使われるためのものです。東北地方の福島(原子力・火力)で発電された電力は福島ではほとんど使用されません。自分たちが使うことのない電力を生産する施設のせいで、避難させられ大変な生活を強いられている福島の人々からみれば、何も考えずに無駄に電気を浪費する私たちの姿がどのように映っているのだろう。行きにも見たはずのこの景色を、自分がこのように捉えたことに、このスタディーツアーの意義を感じました。
平成29年1月24日 森部達彦記
 

いわきスタディーツアー 

2017年2月25日

福島県いわき市に行ってきました

 

私の会社員時代の友人が、元禄時代から続くいわき湯本の旅館を継いでおり、彼との25年ぶりの再会がひとつの目的でした。
二年前に私の妻が、友人(本納寺科学実験教室講師の小森先生)の勧めで、被災地いわきの現状を巡るスタディーツアーに参加しました。そのときの宿泊先がたまたま彼の旅館で、話をしているうちに「かつての同僚」と判明したのです。妻から原発事故から6年経った今でも現地はとても大変な状況だと聞き、激励するために小森先生も含め7名でいわきに向かったというわけです。
現地を初めて訪れてまず思ったことが風評被害についてです。
線量計を持って移動していたのですが、いわき市の放射線量は0.06マイクロシーベルトでした。本納寺のある豊島区と同じ数値です。福島というだけですべてを「危険」と考えていた無知を申し訳ないと思いました。こういうニュースも報道で目にしていたはずなのに「福島は危険、福島は怖い」という意識のフィルターがかかっていたのでしょうか。都合の悪いことは報道されないことが多く、開示されている数値が果たして本当に正しいのかと疑心暗鬼になっていたこともあります。わざわざ危険な地域に行く、危険なものを食べるという選択はしませんが、「福島」というひとくくりで考えてはいけないということを現地に行って実感しました。
ただ、いわき市から南相馬市までの福島浜通りの帰還困難区域や居住制限区域などでは、まだかなり高い線量を示しており、線量計のピーピーという警戒音が鳴りっぱなしだったのも事実です。今回のスタディーツアーでは、第一原発から1.5キロ地点で6.41マイクロシーベルトでした(この地点をただ通り過ぎる際に浴びる放射線量は、海外旅行を900回したものと同じくらいだそうです)。
(つづく)



12/28 おもちつき

2016年12月9日

おもちつき大会のお知らせ

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日時122810時~13時頃まで

毎年恒例「おもちつき大会」のごあんない!
今回も大人気の「ミニ鏡餅コーナー」があります。いつも、これで体中真っ白けになるお子さんも少なくありませんので、エプロンをご持参頂いた方が良いかもしれません。
参加自由ですので、お子さん、お孫さん、ご親戚、お友達などお誘い合わせの上お越し下さい。会費はありませんが、お気持ちは熊本に募金してください。

 

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※昔、「餅をつく」といえば、たんに食べ物をつくるという以上に「祝いごと」としての「心の行事」すなわち宗教的行事であったはずです。これからの子供たちに、ぜひ体験してもらいたいと願っております。

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サッカークリニック

2016年8月17日

サッカークリニック-稲葉洸太郎選手-

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何度も寺報やblogでご紹介しています当山檀信徒のフットサル日本代表選手、稲葉洸太郎選手が、シーズン中にもかかわらず、住職がコーチをしているサッカー部で指導をしてくれました。 生徒は緊張気味で声をかけてくださる稲葉コーチに、もじもじした対応でしたが、プレーを褒めてもらったり、一緒にトレーニングをしているうちに打ち解けて、充実したサッカークリニックになりました。そして、日本代表選手に直接教えを受けたことはとてもよい思い出になったことでしょう。

稲葉洸太郎オフィシャルサイト http://pakila.jp/inaba/ inaba1

 

お盆の夕方

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お盆法要の準備をしていたら、突然の豪雨。激しい雨音、煙る景色が面白くて、本堂の中から写しました。

 

寺ヨガレポート

2015年2月1日

ご本堂で寺ヨガ開催

 

平成26年12月14日(日曜日)にご本堂で寺ヨガが開催されました。

008 女性18名(子供2名)男性4名(子供1名)が参加し、日常から解放されて身も心もリラックスいただけたようで、大変ご好評をいただきました。 静寂な空間でヨガを行うことで深く、ゆっくりとした呼吸を取り戻すことはもちろん、ヨガスタジオでやるよりも、集中力が高まり、気が充実してくる効果があります。また、広々とした風通しのよいご本堂でヨガを行うことでとても気持ちが良く、心と身体を忙しさから解放することができたようです。(インストラクター 石川愛美)

参加者の声
・普段意識をしない呼吸に意識を向ける事で心が落ち着き、短時間で体がぽかぽかになりました。
・綺麗なお寺で五感で感じながら行うヨガは時間がゆっくりで静かで気持ちがよかったです。心が洗われました。
・ロウソクの優しい光の中、お香の良い香りのお寺という環境で家族と一緒にヨガできた嬉しさ。素敵な時間が過ごせました。
・身体はもちろんのこと、なにより気持ちが軽くなりました。住職さんのお話も聞けて非日常を味わえました。また機会がありましたら是非参加させてください。

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植草ひろみチェロコンサート

2013年3月5日

Gracefulチェロ

2月23日東京文化会館に、一昨年、当山お会式で奉納演奏をしてくださった植草ひろみさんのチェロコンサートに行きました。

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奉納演奏のときに演奏してくださった曲も多く、聴いたことがあったので、クラシック音痴の私にもなじむことができました。夜のご本堂での幽玄な感じとは違って、大きなホールでの演奏もまた優美でした。とても癒されました。
植草ひろみさんにとって東京文化会館での演奏はかねてからの夢だったそうです。
コンサート中のお話で、今回演奏のチェロは、203年前につくられたとのことでした。奉納演奏のときのチェロは201歳だったので、同じものだったのかな?

いのちに合掌—東日本大震災の教訓や悲しみを風化させないために

2012年5月10日

宮城石巻より

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このたび本納寺の檀信徒、石巻在住の武山徳蔵・利子夫妻より、東日本大震災の教訓や悲しみを風化させないためにも、と「震災の記録」を数冊お送り頂きました。客殿各所に置いてありますのでご閲覧下さい。 武山夫妻はご自身も大変な被災をされながらも、自衛隊が入るための堤防の復旧工事など地元復興のためいち早く力を尽くされ、各種メディアにも取り上げられるほどの多大な貢献をされています。

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東日本大震災1周忌慰霊法要の模様

教育、修行、文化を統合した「法鼓山国際仏教教育園」

2012年4月17日

台湾法鼓山訪問

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先日、台湾に行って来ました。
以前本納寺前のアパートに住み、立正大学に留学していた台湾僧の釈果暉(洪鴻榮)師に6年ぶりに会うことができました。
先代と親交のあった釈聖厳法師が創始した法鼓山で仏教学院の主任をお務めです。
宝物法華鐘をはじめ山内を案内してもらい、昼食(精進料理)をいただきました。

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法鼓山
法鼓山の創立者の聖厳法師は
「法鼓山には大きな資金力はない、しかしその影響力は深遠で広大である。これは私達の特色だ。法鼓山は社会のために良好な気風をもたらし、有益な修行方法を提供する。これは私達が貢献できることだ。」と話されている。 僧団は1980年に創立された。
設立の主旨は仏教教団を組織し、青年僧の育成、法鼓山の理念を教え広め、よってこの世の浄土の理想を実現することにある。
この組織の主要な活動は研究と開発、各種座禅修行の推進、仏学教育、思いやりの心の教育と普及などである。法鼓山の僧団は聖厳法師を精神的な指導者とし、その創立は1977年に聖厳法師が米国から台湾に帰国し、中華仏教文化館と農禅寺を引き継いだ時に始まる。仏法を広め、将来三宝の住職となる青年僧の人材育成のために、農禅寺は1979年8月に「三学研修院」として成立した。成員は当初10人であった。その後、僧俗四衆の成員が増加した。「法鼓山世界仏教教育園区」の竣工によって、現在この中心組織も法鼓山に移った。聖厳法師は3年前に御遷化されました。
「法鼓」この言葉は、仏典中しばしば現われる言葉である。
たとえば《妙法蓮華経》では「惟願天人尊,轉無上法輪,撃於大法鼓,而吹大法螺,普及大法雨,度無量衆生,我等咸歸請,當演深遠音。」で、「撃大法鼓」とは、仏法の太鼓の響きは人々の心を浄化し、人々の心に安楽と平静をもたらすのである。法鼓山の地理的な形状は、太鼓が横たえられたようで、経典の比喩に基づき鼓に似た形から「法鼓山」と命名された。
法鼓山の宝物に「法華の鐘」がある。2006年12月23日に、法鼓山鐘楼落成記念式典が行われた。法華の鐘の材質は青銅の鋳造で、重量254.5トン、高さ4.5メートル、直径2.6 メートル、最も厚い箇所は29.6センチメートルで、唐様式の梵鐘である。2004年5月に日本の「老子株式会社」に鋳造を依頼し、2005年11月に完成した。
「法華の鐘」には梵鐘の内側外側に《妙法蓮華経》1部、69,636文字と、《大悲呪》1巻、424文字が鋳込まれ、「多宝塔と双仏陀坐像」が描かれている。
〈ウィキペディアより抜粋〉

 

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彼岸花

2010年10月20日

彼岸花

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彼岸花という通名どおり、毎年正確にお彼岸に咲き誇っていた境内の曼珠沙華が、今年はお中日になっても少ししか出てきませんでした。
テレビで「曼珠沙華の群生地でも開花が遅れています」というニュースも聞きました。
ん?ということは、私がずっと見たかった埼玉県巾着田の曼珠沙華群を見に行けるのでは?
いつも秋になると池袋駅の西武線構内に真っ赤なポスターが貼り出されるのです。「いつか行ってみたいなあ」と憧れていましたが、寺の人間には所詮叶わぬ夢と諦めていたのです。
彼岸花がお彼岸に咲いていないなんて!今年を逃したらチャンスはないかも!と、お彼岸も終わった9月末、いそいそ独り電車に乗ったのでした。
その日は埼玉県に大雨注意報が出ていたのですが気にしない気にしない。
平日、しかも雨の早朝。降り立った高麗駅は静かでした。足取りも軽く10分ほど行くと、ますはコスモス畑が広がっていました。気分も盛り上がってきたところで巾着田に到着です。
高麗川に沿って、ダーッと真っ赤な曼珠沙華!!本当に一面の曼珠沙華です。
金子みすゞの詩のとおり「地面の下に住む人が線香花火をたきました」です。村人総出の大線香花火大会です。
他の木に寄生して幹の途中から生えているたくましい曼珠沙華もありました。
足下がぬかるむ中、興奮してコースをぐるぐる歩き巾着田を満喫。
増水した高麗川は渡れませんでした。向こう岸に神社のようなものが見えたのに残念。周りにはいくつも小山があって、天気が良ければ一日散策できそうなステキな所でした。
一時間くらい経った頃、大型バスが続々と到着し観光客の数が増えてきたので、ようやく帰る気になり大満足で帰途についたのでした。
そんなわけで、季節外れと言われようと、私の携帯電話の待ち受け画面はいまだに巾着田の曼珠沙華なのです。(Y)

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災害時・緊急時、体験学習

2009年3月6日

防災訓練をしてきました

 1月24日、総勢12名で池袋防災館へ行って参りました。ここはガイドさんの案内のもと、「火事・煙・地震」などが体験できる施設なのです。
 火事が起きたらとにかく大声を出して周りに知らせ「初期消火は火が天井に届くまでの間だけ」と説明を受けた後、実際に水の入った消火器を使って燃える画像に向かって放水体験。「炎にいくらかけても消えませんよ」の注意が飛びます。「火元にかける」という簡単な事も慌てているとできません。

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 煙が充満する停電の中で避難する訓練では、知らない場所、しかも暗い中で出口を探すことの怖さを実感しました。姿勢を低くしなければならないとわかっていても、早く外に出たい一心でつい中腰になってしまいます。するとすかさず「ブー!!」と警告音がなるのです。訓練は何人かでまとまって逃げましたが、これがもし外出先で一人だったら・・・と考えると、落ち着いて対処できる人はどのくらいいるのでしょうか
 地震コーナーでは震度7を体験し、なにはともあれ家具を固定しなければと再認識。
 最後に人工呼吸の訓練とAEDの使い方を教わって終了となりました。

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 実は私は5年ほど前に一度ここで同じ訓練を受けていたので、余裕を持って参加したのです。ところが全く覚えておらずあたふたしてしまい、自分でも驚きました。また、地震の時は「最近ではコンロやストーブなどは自動消火されるので、まずは自分の身を守ること」との説明を受け、時代によって対処法も変わることを知りました。毎年でも訓練しておいた方が安心、というのが一番の感想です。
 私達の他にも、家族連れや会社から研修で来ているグループなどが参加していました。ロビーの売店も防災グッズが充実しており役立ちます。
 防災体験の後は茶話会で盛り上がり、充実した午後となりました。

現在本納寺では耐震をはじめ、池・井戸水の利用・ソーラーシステムによる電力の確保・AEDの設置など、万一に備え、檀信徒はもとより地域の方にお使いいただけるよう設備しております。

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雑司が谷に唱題の太鼓が鳴りひびきました

2008年1月25日

青年会 寒行レポート

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 大寒のこの時期、天台笠をかぶり手甲脚絆の出で立ちで団扇太鼓をたたきながら唱題行脚する青年僧の行列に出会います。
 今年も日蓮宗東京都西部青年会が五日間、池袋、新宿などを回りました。
 本納寺には1月21日にお参り下さり、当山並びに檀信徒、各家ご先祖のご祈願、ご回向をしてくださいました。
 気温も下がり冷たい風が吹き手足の感覚も無い中で、太鼓をたたき、お題目を唱えるお姿に身が引き締まりました。
 すれ違った方々は「タイムスリップしたみたい」とびっくりしたようです。たまたまその時来寺していたお客様も「迫力に圧倒された」と行列に遭遇したことに感激していました。
 西部青年会の各聖、ありがとうございました。

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手すりがつきました

2007年12月21日

手すり&スロープ

客殿内はバリアフリーですが、玄関と本堂前は階段です。
このたび遅まきながら手すりを設置しました。
客殿大玄関の段差部分
靴を脱ぎ履きするスノコまでに段差がある為「ふらつくと怖い」という声がありました。

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本堂に上がる階段部分
右も左も障子なので「つかまることができない」という声がありました。

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客殿大玄関
移動型車いす用スロープが設置できるようになりました。ご使用の際はお知らせください。

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9月9日に法灯継承式

2007年5月4日

天童行列(お稚児さん)出仕者募集

—法灯継承式に天童行列を行います—
 このたび本納寺は新住職になります

 9月9日の式典において、年齢三歳から九歳位までのお子さんのご出仕をお願いします。
 天童は、お稚児さんとも呼ばれますが、選ばれた仏さまのお使いとして神聖な行事を祝い、花を添えます。男児、女児が美しく着飾りお化粧も施し、行列してご宝前に献華します。
 天童に出仕の子供さんは、古来健康で智恵良く発達し元気に成長すると信ぜられ、昔は神社やお寺の行事にはよく行列が見られたものですが、近年のように少子化傾向が進んでからはごく珍しい催しとなりました。
 本納寺としても天童行列は客殿の落慶式以来十年ぶりのこととなります。当日は法明寺鬼子母神堂より本納寺までの間を行列いたします。
 是非、お子さん、お孫さん、多数のご出仕をお待ち申し上げます。

一、出仕料は、一人八千円(衣装・化粧代・奉納)です。お弁当とおみやげ付きです
一、当日ご用意頂くものは、着物または浴衣、兵児帯、白足袋、草履です。
  少しですが歩きますので、足元は靴(その場合は靴下)でも構いません。
一、三十名に達し次第締め切らせて頂きます。
お申し込みに関する詳細は次号にてお知らせいたします。

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